ただのモノローグ

しがないヘイホーが書く日記

中学時代はネットがすべてだった

主に仕事に着いていけないことが原因で社会や現実や自分自身のことが定期的に嫌になり、時々Twitterでだらだら愚痴ったりこうしてブログに駄文を書き込んだりしている。

こうした現実逃避じみた行為というのは、中学時代も同じようにやっていたものであった。

 

僕のインターネットの馴れ初めというのは、とあるゲームのサイト内にある掲示板だった。動機はもう覚えていないけど、適当なお喋り用のスレッドを見つけ挨拶して以来、中学を卒業して高専に入るまでそこに居座ることになる。

当時の僕は部活の練習に学校生活の大半を拘束されていて、クラスは声の大きな奴らに支配されていて居心地が悪く、さしずめ現実の世界に嫌気が差していた。思考も今以上に拙いものだったせいで、湧き上がるストレスと上手く付き合うことも出来ず、すごく苦しかったことを覚えている。

夕方部活から帰ってくると即座にパソコンの電源を入れ、掲示板にレスするのが日課のようなものだった。顔も知らず、住んでいるところもバラバラの人たちと画面越しに適当な会話をする日々。あの頃は完全にネットの世界がすべてだったのだ。

 

その掲示板の人たちに影響されてブログやTwitterをやるようになり、いろんなものを発信していた。今思うと年齢相応の、厨二臭く恥ずかしい内容がほとんどだったけど。

僕がブログをやっている影響で、リアルの友達も何人かが同じようにブログを始めたというのが面白かった。毎日みんなのブログを覗いてひとりで爆笑してコメントを書くというのが純粋に楽しかったな。

 

あのブログは既に閉鎖していて解除用のパスワードも忘れてしまったし、昔のTwitterアカウントも削除していて見られないから当時を振り返ることはもう出来ない。けれどあの頃の僕にとっては本当に大事なものでひとつの世界のように思っていた。

負の感情と自意識と承認欲求の集合体みたいだった中学時代の僕は、リアルでは発散できなかったやり場のない感情(いいものも悪いものもある)をぶちまけるにはインターネットしかなかったのだ。

中学校にいた一部の心ない連中にブログを笑われて恥ずかしい思いをしたこともあったけど、それでもやめたりしなかったのは、もはや素の自分を出せる居場所がそこしかなかったからだと思っている。

(当時の奴らが今平然とSNSをやっていると思うと本当に腹立たしい。)

 

僕は今地元を離れて東京で生活しているけど、ブログで交流したリアルの友人たちとは今でもTwitterでやり取りしたり定期的に会って飲んだりと、交流が続いている。

おそらくあの頃にネット上で繋がりがなかったら、ここまで交流が続くことはなかったのではないかとさえ思う。

 

高専に入ってからはリアルで人と接することの方が比重的に大きくなり、Twitterもアカウントを変えたりして徐々にリアル寄りの交流になっていった。

それでも東京という友人もいない孤独な環境にいる今、新しいTwitterアカウントを通して再び昔のような顔も知らない人たちと接する機会を多く頂いている。(本心ではやりたくないことに時間を拘束されてしんどいという状況も、奇しくもあの頃と同じである。)

中学時代と比べて流石に常識もわきまえるようになり、同時に羞恥心や抵抗感も強くなったけれど、何気ないツイートにいいねがついたり共感してくれるのはやっぱり嬉しいし、皆と何かを共有するのは楽しいことだと再認識できた。

Twitterでは主にバスターズの方たちと時々交流をさせてもらっている。今まで好きな音楽について共感してくれたり一緒に語ってくれる人がリアルにほぼいなかったので、そういう価値観を受け入れてくれる環境があるというのは本当にありがたいことだ。

 

思えば中学の頃は現実に嫌気を感じながらも、「このまま地元を出ずに生活していくしかないんじゃないか」という閉塞的な気持ちがあった。

それが今では地元を飛び出し、東京という都会で生活をしてしまっている。そしてあの頃と同じ変わらないやり方で人と交流をしているのだ。人生はすべて繋がっていると聞くけれど、何となくそれにも納得がいくような気がする。

 

僕はこれからもずっとインターネットを頼りに生きていくことになるだろう。定期的に中学時代の陰湿だった自分を思い出しながら。

もしも10年前の自分に会えるならば、何て助言をしようかな。「お前のその世界観は絶対無駄にならないからな」とか言ったら絶対笑われるだろうな。