ただのモノローグ

しがないヘイホーが書く日記

棲み分けの話

ツイッター上で色々バグや凍結など不具合が頻発していた頃、万が一ツイッターが使い物にならなくなった場合を想定してInstagramのアカウントを作った。結果的に名前がXに変わったり今でも改悪など不穏な動きはあるもものの、かつてツイッターだったものは今でもほぼ平常通り稼働している。少なくとも普通に投稿するだけなら何の不都合もない。

インスタはあくまで退避用に作ったサブアカみたいなものなので、ネット及びそれに付随してリアルで会う人たち”だけ”をフォローしている。好きなバンドマンや有名人はフォローしていないし、タイムラインの仕組みも意味不明なのでほぼ全く見ていない。インスタでやっていることは、今のXには無い機能・ストーリーズを親しい人限定公開で時々投稿することぐらいだ。身バレしかねないけどちょっと呟きたいこと(大した内容ではない)をポロっと吐くのにはちょうどよい。

 

こんな風に、類似したネットサービスを複数利用する場合、どれも同じ用途で使わずある程度棲み分けを行いたいという気持ちがある。はてなブログとnoteにも、似たような棲み分け意識を持っている。

僕は今のネット活動のスタートがはてなブログなので、基本的に日記や自分の考えを整理した文章などはこちらで書き続けたい。今まさに書いているこういう記事とか。それに対して、noteは創作物を展開する(しやすい)ツールだと感じている。小説やエッセイなどの文章以外にも漫画やイラスト、音声や動画を投稿出来るし、SNSのようなつぶやき形式で投稿も可能なので幅が広い。僕もXで毎週ピロウズ短歌を投稿しているけれど、それらのまとめや解説を載せた記事は毎回noteで更新している。

文章だけで言うと、はてブロは自分の考えや生活の記録、noteはそれ以外の"人に読ませる"ことをメインに据えたものを投稿するという棲み分けを行っている。去年の初めごろは「noteで毎月エッセイを書いて投稿するぞ!」と意気込んだものの、気力が持たず数ヶ月で挫折してしまった。まぁまた気が向いた時だけでも書いていけたらとは思う。あとは短編小説を書いてみるとか。

 

文章を書く上で最近気になっていることは、常体・敬体の使い分けだ。僕はこれまでずっと常体で文章を書いてきたのだけど、人に読ませるエッセイなどは敬体の方がしっくり来るのでは、と考えるようになった(あくまで個人的な納得感の話だが)。敬体の方が表現が豊かになり、感情が伝わりやすくなると思ったからだ。

上記のnoteで書いている短歌まとめ記事も、人に読んでもらうこと前提なので解説文は敬体で書いている。以前はてブロで更新した「最近の活動まとめ」記事も人に説明する目的の方が強いので、敬体で書いてみた。日記のような記録に近い文章はこのままの方ががいいと思っているけれど、今後noteでエッセイを書く時も、実験的な感覚で敬体の文章を試してみるかもしれない。そういう気分になれば、の話だが。

 

休日も予定ややらないといけないことが渋滞しているところがあり、それに加え読みたい本や漫画もあったりで、自分がどう動けばいいのか分からず何度も軽いパニック状態になっていた。休日に何もしないことを悪だとは思わないし、寧ろ素晴らしいことだと思う。でもやりたいことはなるべくちゃんとこなして満足したいという完璧主義くさい性格が、逆に自分を苦しめているような気がしてならない。

ノートパソコンのキーボードでカタカタ文字を打っていると、自然と気持ちも落ち着いてくる。これはスマホフリック入力では絶対に得られない快感だ。今頭の中で考えていてここにも書きたいことは他にもあるけれど、それは今後控えている諸々のイベントがひと段落してから、それらを通して得た気持ちなども含めて整理して書き上げようと思っている。